曇りガラスの向こう側へ

正統派のフリーランス心理カウンセラーです

相互理解不足と勘違い


人間関係の難しさというのは、相互理解の不足からくるといわれています。相互理解の不足は、案外互いの勘違いから起きます。勘違いの原因は、相互の経験の違いや年齢の差、環境の違い、個人の感じ方の違いなどから起きることが多いようです。


人間関係の原理は、やはり幼少期の過ごし方と深い関わりがあります。まさに原点。個人を取り巻く環境、特に養育者との関係に起因するので、乳幼児期を経てどう育ってきたかは重要です。


親の勘違いと子の経験不足による勘違いはかなりの確率で相互理解不足の原因になり得ます。

母親があるいは父親が軽い気持ちでたしなめたことが、子にとっては大きな恐怖に受け止められることもあります。


こんな例があります。

少年が2歳か3歳の頃、新聞を読んでいる父親のそばでミニカーを動かしていました。ミニカーが動かなくなって何かが絡まっていたようで、少年は父親にそれを取り除いて欲しいという意味で、父親にミニカーを見せたそうです。

途端に父親がものすごい形相で怒ったそうです。そして少年の手を振り払ったそうです。それ以後、少年は父親に甘えることをやめました。お父さんは無口で怖い人。それがその少年の父親像だそうです。

だそうですという表現が続いているのは、その少年の記憶に基づいて聞き取った私の記録です。


一方母親はというと、近所の人の前ではニコニコとしているけれど、少年はその母に抱かれた記憶がないそうです。幼稚園の親子遠足の時、母が少年と手を握って歩こうとしたら、感触がとても気持ち悪くて、少年は手を離したそうです。化粧をした母の顔が嫌で、家の顔と外の顔が違う母親に、少年はずっと戸惑っていたそうです。



私が思うその母親像は、私の年齢と少し重なるので、印象として、家事に没頭することで無口な夫とのバランスをとっていたのではないだろうかと推測し、無意識に子供と感情を合わせる作業を怠っていたのではないだろうかと考えました。少年の直ぐ上の姉が母親にとても甘えていて、いつも姉に独り占めされていたとも言っていましたから、少年も母親への愛情が枯渇していたかもしれません。

人はいくつの状態でも、愛を欲しがっても欲しがってももらえないでいると、枯渇の状態が進み、やがて欲しがることすらしなくなります。大人になった少年の話を聞いていて、私はそんなことを思いました。

おもちゃを持った少年の手を振り払った父親も、軽く払っただけかもしれません。しかしそれは少年にとっては恐怖の出来事でした。父親はもしかして読んでいた新聞にミニカーが当たったかで手を払ったのかもしれません。いろんな状況を大人の私だったら想像できますが、幼い子はそんな想像はできず、ひたすら恐怖でしかなかったでしょう。そしてそういう年齢の子供の感情が父親には理解できていなかったかもしれません。問わず語りですが、そんな事を想像してみます。


昔の出来事だけど、少年はほぼその思いを毎日コピーして、まるで昨日体験したかのようにずっと日々感情コピーをしてきました。

だから40歳を過ぎた今でも父親への恐怖と怒りは少年の頃と同じなのでしょう。

成長するどこかの時点で、自分の主張が通らなかったり、相手の言い分が飲めなかったりして気持ちの交流が阻まれると、そしてそれがいつもいつもそうだったとしたら、人のなかにはやがて生きづらさを感じる部分が起きてくるのは至極当然のことだろうと思います。



原因ばかりを探して責める時代は終わりました。人は変われるというのは今の心理学や脳科学、人文科学でも当たり前の主張になってきています。悩める自分をどう変容させていくかということになると、生いたちはそんなに重要なキーポイントにはなりません。

これからどうするのかが大切なことですよ、と私は言います。これからどう生きていくかということに視点を当てていくと、心は気づきを本人に示したくてたまらないので、「気づく」ということが大切な作業になっていきます。



手放すチャンスです。

変わるチャンスです。

カウンセリングルームに来たんですから。

さあ!

大きく息を吸って新しい出口を探しましょう!

目の前にあることに気がついて!



それをお手伝いするのがカウンセラーの仕事です。と来る日も来る日も伝える私の日常。


好きですよ。





それではまた

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